深夜邂逅

芋づる的思考を垂れ流す

2024-02-28

久しぶりの日記。何か創作がしたいが何から手をつけていいか分からない。何か書いてたいけど描きたいものがない。この所自分が感覚しかない空っぽの人間と感じるようになった。快・不快があるだけで、思想とか哲学とかは無い。思考するほど賢くもない。移ろいゆく無常のものそのものであり、確固たる自己というものがない。何となく昔からそういう感覚人間であることが他の人に理解されずに、気まずさを避けて意見を言わないことが不誠実と捉えられ、ダメだと言われてきたことなどがダメージになって今もジワジワきている。うつに入りそうなのかなと思う。そういう人とはもとより合わないのだ。思考や感情や慮りを原動力としてこちとら動けないのだ。感覚が冴えすぎて、些細なことでエネルギーを消耗してしまう。なんとか社会生活に順応しようとして、考えたり慮ったりいくらか賢くなろうとしてきたけど、ストレスが増えるばかりで心身ともに疲れてしまった。人に合わせようと我慢するから友人と会うのもなんだかイライラして、楽しめなくなってしまった。嫌なことばかり目に付いて、楽しむことが出来なくなった。作業所も無為に耐えられないのと、孤独が怖いので行くばかりで、でもしかし、自分がしたいことでは無いとか、酷いかもしれないけど関わりたくない人も増えて、なんか嫌になるばかりだ。つまらない人間になったような気がする。楽しくない。感覚首位で過ごしていた時の方が怒らなかったし、グジグジしんどいことを考えることも少なかったように思う。合わない人と付き合ってそこからいい関係が作れるわけでもなく、無理だな無駄だなと思う。作業所に行くのも限界が来ているかもしれない。もとより定期的に義務的にどこかに通うのが向いていない。行かなきゃならないと思うと途端に辛くなる。社会不適合者だと自分を責めたりしたけど、それもしんどいばかりで余計我慢が増えるだけだ。他により良い生き方、働き方はないかと考えるようになった。

やりたいことは創作で、仕事には繋がらないかもしれないけれど、お金にはならないかもしれないけれど、そこから離れると、自分は途端に健康を失ってしまう。何かしなければならない。したいことを、そうしないと崩れてしまう。生きる限り私の感覚はある。時々何も感じたくなる、何もしたくない、何も出来なくなる、意識を失いたいと思う。そう思っている自分を責める。でも、そのエネルギーを創作に向けることが出来たらどんなにか希望になるだろうと思った。創作から離れていた、完全には離れていないが、自分には才能も努力する根気もないと卑下してやっても無駄だろと思いながら書いていたが、そういう不安の裏にはお金になることをしなければならないという気持ちがあって、無駄こそ本当は大切なのにゆとりなのに、それを忘れていたと思う。もとより常識的に生きることなんて念頭になく生きてきたのに、離婚からのショックで歯車が狂ってしまった。病状の自覚が最近やっと芽生えてきて、半年前の日記を見ると恥ずかしくなるぐらい何も見えていないし、書いている時の気持ちと書いていた自分自身の間に少し距離があって、誠実さがすくなかったかな。

人にまみれて働くことは諦めて、人とは違うけれども、自分なりに人の助けになろうと思い直した。何らかの形で。

このブログは自分のために書いていると初めの方に書いたが、それは半分嘘である。深夜邂逅と言うブログタイトルは、自分が不眠の時にネットで癒されていたように、そういう風に思いがけず出会って人の暇を癒せるようなブログにしたいと言う祈願があった。なんか人のためにこれをしていますと言うのが恥ずかしく、いい格好をしていると思われるのが嫌だったのでポーズを取っていた。

何が出来るかは全然分からない。

自分の躁鬱の治療の一環としてブログをやっていく。そしてそれが誰かの暇つぶしになったらとても嬉しい。

そこから始めようと思った。